玉川奈々福さん、沢村豊子さん|トークイベント
こんにちは
ヤキュージョーです
メディアセブンのトークイベントスタートしました!
トークイベントに玉川奈々福さん、沢村豊子さんをお招きしました
しばらくお休みしておりましたトークイベントですが
リニューアルしてまた皆様に幅広いジャンルのゲストをご紹介いたします
近年では様々な電子機器の発達で音や声にいろいろ手を加えて編集し、世界に広く公開出来るようになりました。しかし日本には昔から一人の人間が様々な役割を演じて物語を披露するという芸が存在します。その一つが浪曲です。
浪曲は歌や物語を披露する浪曲師と三味線を弾く曲師の2人で舞台に立ちます。
物語の内容はおなじみの義理人情の侠客ものから、家族の情愛、そしてこれらのスタンダードなものとは別に浪曲師自ら自作するものまであります。たった二人の三味線と声だけでとても豊かな世界を堪能させてくれるのが浪曲なのです。
玉川奈々福さんは曲師(三味線)を趣味で始めたのがきっかけで浪曲の世界に足を踏み入れ、その後の師匠となる故・二代目玉川福太郎さんに勧められ浪曲師の修行をしてデビュー。
一方、曲師の沢村豊子さんは端唄などを習っていた12歳の時に日本舞踊の師匠に連れられて九州から上京し、浪曲の三味線を頼まれるようになり、それ以来数々の大物演者との共演を経て、これまで人生のほとんどを三味線を弾いてこられたまさに国宝級の曲師さんです。
そして浪曲を聴いたことのないお客さんもいらっしゃるので、まずは実演からスタートいたしました。
奈々福さんご自慢の”ほとばしる浪花節”を目前で堪能させていただきました。浪曲などの話芸では客席との呼吸がとても重要で、「いい女!」等々の掛け声のかけ方などもご指導いただきました。
浪曲には明治時代から今まで何度かブームがあり、第二次大戦後の戦後の長者番付のトップはみんな浪曲師だったそうです。昔のラジオの番組表を見ても浪曲番組の多さに当時の人気を見ることができます。
お二人の浪曲人生について伺うと
沢村さんは師匠である故・国友忠さんと息がぴったりあったときが忘れられない瞬間だったといいます。長い間曲師をやられていても、自分の納得できる瞬間というのはそんなに多くないそうなのです。
大きな失敗としては歌舞伎座や国立劇場などの大きな場所で大勢のお客さんを前に幕があいた直後、三味線の弦が切れたときは冷や汗ものだったとか。
奈々福さんは玉川福太郎さんの特集である「玉川福太郎の徹底天保水滸伝」をプロデュースして多くのお客さんを集めることができたときがとても嬉しかった、その逆にお師匠さんが突然の事故でお亡くなりになった時は絶望のどん底であったと。
奈々福さんはご自身でも浪曲をつくられるそうでその際注意することとして、「いまの生きてる自分が共感できるものであり、今を生きる浪曲でありたい。」と
お客さんから東日本大震災の前後でなにかご自身のなかで変わったかとの質問に対し、
「あのとき人々は娯楽を楽しむ余裕などなく多くの仕事がキャンセルになった。この災害と事故は私たちの想像を超えすぎていると感じ、同時に無力感にとらわれた。」
「時間がたってからボランティアの仕事で大熊町の被災者が避難している現場へ向かった。大熊町は放射能汚染の警戒区域であり、故郷に二度と帰れないかもしれない。そのような人たちに何を演じれるのか、浪曲には福島の風景を歌いこんだものがあるが披露するべきかとても悩んだ、しかし演じてみたらとても喜ばれ、そのことによって逆に励まされた。」
「そこで私が役に立つとか立たないとかを先んじて考えるのは傲慢である。目の前のお客さんに身を挺して演じるしかないと強く感じた。」と奈々福さん
お二人のぴったり息の合った実演だけでなく、一つのことに取り組む姿勢と、天真爛漫な明るさにとても元気づけられた夜でした。様々な場所で活躍するお二人の今後がとても楽しみです。
なお奈々福さんの講演のスケジュールは公式ホームページでご覧いただけます
ななふく日記
http://tamamiho55.seesaa.net/
それではまた