平瀬礼太さん|ブラウジングトークセッション
こんにちはヤキュージョーです
2011年8月4日 「銅像受難の近代」の著者、平瀬礼太さんをお招きしました。
平瀬さんは普段姫路市立美術館で学芸員をされている方です。そもそもなぜ銅像なのか?気になるところですが、平瀬さんは戦後の絵画を研究されていたことが発端のようです。
あるとき美術の研究者から「美術品の移動」をテーマにした文章を頼まれる機会があり、戦時中から戦後にかけてアイコンとして作られたり、供出されて武器になったりと変容しながら移動させられる運命にある銅像に着目して独自に調査をされたようです。平瀬さんいわく作家個人ではなく銅像全体を主題にした研究はあまり見られないとのことです。
早速、銅像受難の歴史をスライドを見ながら解説していただきました。銅像が日本に入ってくるのは明治時代らしく、ヨーロッパへの視察旅行から帰ってきた人々がその街並みに建てられていた銅像を日本にも作らなくてはいけないと考えたようです。こうして偉い人や神話の主人公などが銅像として建てられていきます。いまでも様々な場所で楠木正成や将軍の銅像が見られますね。
こうして銅像が建てられ始めるとそこらじゅうに様々な人の銅像が現れ、それに対して国は勝手に建てられないように法律を作ったりもしたようです。
このような銅像とそれを取り巻く歴史を紹介していただきましたが、中でも印象深かったのは伊藤博文の銅像のおはなし。伊藤博文はみなさまもご存知の偉人でありますが、当時は女性関係で悪い話が絶えなかったようです。それも手伝ってか、伊藤博文の銅像ができると、新聞では揶揄の対象となり、暴動が始まれば、民衆に倒されて引き回されるという事件も起こったようです。今の日本ではちょっと考えられないような状況です。
話はそのまま第二次大戦における小学校での二宮尊徳の供出の話に移っていきます。これに関する資料も大変興味深いものでした、複数の銅像にたすきをかけて学生と撮られた記念写真などは奇妙な感覚さえ受けました。
そして戦後には銅像も思想を表すものの対象としてGHQに監視されて軍国主義的な銅像は排除されます。その後に出てくるのが、自由という名のもとに大量に制作されるのが女性の裸の像と母子などの像です。この現象については参加者の方から質問もありましたが、その明確な原因はよくわかっていないようです。平瀬さんの仮説としては戦時中に女性の裸などを表現することが厳しく制限されていたことや、アメリカの考える男女の平等の思想を日本に根付かせるためそして戦争と離れた銃後の存在など様々な理由が考えられるが、あまり確実なことではないようです。
戦争と美術に詳しい平瀬さんならではの興味深いお話が聞けました。
余談ですが、平瀬さんの勤務されている姫路市立美術館は姫路城の隣に位置し、明治時代の建物で(明治末 – 大正2年建築・旧陸軍第10師団の兵器庫、被服庫)を保存活用しているようで、珍しい美術館です。
お近くの際には是非お立ち寄り下さい。
平瀬さん、参加者の皆さんありがとうございました。